知ること、それだけ。

この記事は、2025年8月・9月投稿の旅行記「紹興酒試飲救急搬送ツアー2025 in 四季島」のうち、震災遺構のみを抜粋して記述したものです。

旅行記全体をお読みになりたい場合は上記のリンクをご参照ください。なお、内容が大変しょうもないため、読む必要性は全くございません。

平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について

2011年3月11日 東北太平洋沖で、マグニチュード9.0 最大震度7の大きな地震が発生しました。また、これにより巨大な津波が発生したほか、東京電力 福島第一原子力発電所では大規模な事故も発生しました。

被害を受けられたすべての方に、心よりお見舞いを申し上げます。

当記事では震災遺構の写真を多く使用しております。気分が悪くなった場合は無理をせず、閲覧を中止してください。

今回は震災の内容を主に取り扱っておりますが、これはあくまで一部分でしかありません。東北太平洋沖には豊かな自然と美味しい食べ物、そして素敵な人々がたくさんおり、とても魅力的な地域です。

「東日本大震災」という固有名詞にとらわれず、ぜひ、訪れてみてください。

震災遺構 米沢商会

震災遺構 米沢商会は、岩手県陸前高田市にある震災遺構です。震災前は、梱包資材を中心に卸売を行う店舗だったそうです。

ビルの正面側。米沢商会を襲った津波は、ビルの3階部分にとどまることなく、そのうえの柵をも変形させてしまっていることがわかります。

ビルの内部は整理されていますが、それでも津波の残した痛ましい痕跡は残っています。

陸前高田を襲った津波は14.5メートル。15メートルの高さのあるビルの、煙突の先端近くまで津波が押し寄せました。

店主の方は、この煙突にしがみついたことで無事でした。目前にまで迫る津波の光景は、想像もしたくありません。

震災後の陸前高田の中心部は、約12メートルかさ上げされた内陸部に移されました。米沢商会も、このかさ上げされた新しい店舗で営業をしているそうです。

2年ほどして周囲の建物の取り壊しが進み、古里の姿が失われていく中で、保存への思いが強まった。ビルは命を救ってくれた「恩人」であり、唯一残った思い出の品だった。

岩手日報「碑の記憶|中心市街地襲った津波 (陸前高田市高田町・米沢商会ビル)」(https://www.iwate-np.co.jp/content/ishibumi/20210310/) より

米沢商会のビルは、店主自らが維持している、数少ない民間による震災遺構です。ビルを残し維持するという大きな決断からも、店主の米沢さんの強い想いを感じます。

陸前高田市高田町・気仙町を歩く

先述の通り、陸前高田の中心部は12メートルかさ上げされた内陸部に移りました。写真の右側、高台となっている地区にはスーパーや商店、駅や市役所などがあります。

一方、写真の左側は災害危険区域に指定されており、空き地となっています。

また、米沢商会の周辺も2メートルほどかさあげが行われています。しかし、米沢商会のビルは当時の高さのまま残されているため、遠くから見るとビルの1階部分が見えません。

かさ上げされ、区画整理もされているため震災当時のままではありません。それでも、かつてはあった人の営みが消え、平面だけが広がるこの光景からは、悲しさのような悔しさのような、そんな思いがこみ上げてきます。

海に近い部分は、公園として整備されました。今回は訪れませんでしたが、サッカー場や野球場なども整備されているようです。

道中、こんなものを見つけました。建物の基礎でしょうか。公園の一角に置かれているコンクリートからも、震災の痕跡を感じます。

この地区の一部には、かさ上げされずに残されたと思われる建物の基礎もいくつか残っているようです。この遊歩道の近くにも残されていたようですが、気づくことができず…

震災遺構 タピック45(旧道の駅高田松原)

続いては、旧道の駅高田松原 タピック45です。震災前は道の駅として機能しており、観光の拠点となっていました。

タピック45の本棟。三角形の形をした跡がついている部分にはガラス張りの入り口があったそうですが、津波に全て流されてしまいました。

津波は建物の3分の2の高さまで到達。

建物の周りと内部には、漂着物がそのまま残されています。波の威力に加えて、いろいろなものに当たったはずの建物、よく残ったなとしか言いようがありません。

建物の裏手に回ってきました。津波はおおよそ階段中腹のガラス窓の上までは到達したでしょうか。この階段の最上段には3人が避難し、無事でした。

漁業で使うような紐が絡まっています。

裏手にあるステージ跡。建物の階段をスタンド席にするような形で、さまざまな形で活用されたそうです。

津波により、ステージの屋根は流されました。残された2本の円柱は、それを支えていた柱です。

ステージを照らしていた照明塔は、ボルトで固定されていたため流出こそしませんでしたが、なぎ倒されてしまいました。すさまじい波の威力が計り知れます。

そしてここは、野に返り始めています。遺構に対して除草作業などを行うのかどうかはわかりませんが、もしかすると、いずれ埋もれてしまうかもしれません。

タピック45の増築館は、骨組みを残して全て流されてしまいました。その骨組みも大きく変形してしまっています。

かろうじて残った建物と、流されてしまったもの。公共施設としての役割を考えさせられるような震災遺構でした。

東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMI伝承館

タピック45の横には、新しい道の駅 高田松原とともに「東日本大震災津波伝承館 いわてTSUNAMI伝承館」が作られました。

館内の様子は撮りそびれてしまいましたが、当時起きた出来事を文面・モノから知ることができたほか、過去に三陸を襲った災害も取り上げられており、東日本大震災よりも前の歴史から知ることができます。

特に印象に残っているのが地層の展示。東日本大震災よりも前に起きた津波で堆積したとされる地層がいくつかあるそうで、過去に何度か災害が起きていることと、それを未来に伝えることの大切さを感じました。

高田松原 津波復興祈念公園

伝承館の裏手は、高田松原復興祈念公園として整備されています。また、沿岸部は大きな堤防が再建されました。

さらにその奥には松林ももう一度植えられました。数年後、この松たちの成長した姿を見るのが今から楽しみです。

堤防の上には、献花台も置かれています。

奇跡の一本松

奇跡の一本松は、もはや語るまでもないほどに有名な震災遺構です。

この地にはおよそ7万本の松が植えられていましたが、それらのほとんどが津波により流出。しかし、この一本だけは流れずに残りました。がれきの中で一本だけそびえ立つ松の姿は、陸前高田の人々を元気づけたと言います。

この松は2012年5月に枯死が確認。現在は震災復興のモニュメントとされています。

陸前高田ユースホステル

奇跡の一本松と共に保存されている遺構は、陸前高田ユースホステルです。

写っている通り、建物は折れ曲がり、水没してしまっています。

陸前高田ユースホステルは震災前に既に休館しており、人的被害はありませんでした。この建物が盾になったことで、奇跡の一本松が生き残ったと言われています。

気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館 (旧気仙沼向洋高校)

続いて訪れたのは、気仙沼向洋高校の旧校舎を活用した「気仙沼市 東日本大震災遺構・伝承館」です。

入り口の角の取れた校門と、その先に見える校舎が痛ましい。

校舎内は、ほとんど当時のまま残されています。

上の3枚は1階の様子。あまり良い表現とは言い難いですが、アニメ「がっこうぐらし!」で見たことのあるような景色です。

階段を使って上の階に上がります。階段の壁も痛ましいです。

3階。上の階なのに、1階と様子が変わりません。

床に落ちた紙。水に濡れた紙特有の、波打つシワが見受けられます。

津波に流され漂着した車がそのまま残されています。ここ、3階だけど…

続いて4階。津波は、この4階の床上25センチのところまで到達しました。

この棚の、濃くサビが出ている部分までが浸水したそうです。

床上の浸水にとどまったため、備品は壊れているものの、下の階で見たような壊滅的状況でないことは見て取れます。

屋上。当時とは似ても似つかないほど、訪問時は晴れていました。

海を望みます。校舎の横はゴルフ場となっています。

中庭に生えているのはヒバの木。震災前に植えられ、津波に吞まれたものの残り、現在でも成長し続けています。

下の階に降りてきました。階段横、非常扉が変形してしまっています。

校舎の4階部分には、津波に流されてきた建物がぶつかり、外壁が壊れてしまっています。

大きな被害とはいえ、建物が当たったのに崩壊しなかったのは、本当に不幸中の幸いだったのかなと思います。

校舎の横にあるのは体育館。

建物を覆っていた屋根は流出。壁と柱のみが残り、内部は草木で覆われ始めています。

サッシや手すりも、津波により大きくゆがんでしまっています。

また、体育館の建物は崩落がはじまっているのか、補強されています。

校舎と校舎の間に挟まり、折れ重なった車。今回の旅で、一番衝撃だった箇所です。

津波の恐ろしさはもちろん、14年と言う月日を感じるような草の生え具合や、もういつ倒れてもおかしくないようなやつれ具合など、いろいろな感情がありました。

最後、遺構である校舎から伝承館へ戻る順路には、震災前の教室の写真が飾られていました。笑顔で写る生徒たち。でもそれが置かれているのは、ボロボロに変わり果てた教室の内部。

ついさっきまであった日常が奪われていくさまを想像し、心が痛くなりました。

東日本大震災・原子力災害伝承館

続いて訪れたのは、「東日本大震災・原子力災害伝承館」。東日本大震災により発生した福島第一原子力発電所の事故について知ることができる施設です。

館内は、震災前から事故発生時、現状の取り組みと未来、というような時系列に沿って展示がされています。

社会科見学の団体に追われるような形で展示を見たため、写真は序盤の3枚しか撮る余裕はありませんでした。しかし展示はじっくりと見ることができ、あの日起きたこと、そして今やっていることを十分に理解することができました。

語り部の話は聞くべき!

東日本大震災・原子力災害伝承館に行った際、語り部の話は聞くべきです。

語り部の方々は日替わりで、それぞれの被災した経験を聞くことができます。

自分が行った日の担当は、双葉町浜野行政区区長さんでした。被災した当時は双葉町中野地区に暮らしていたそうで、地震と津波、そして原発事故の経験を聞くことができました。

詳しい話はぜひ生の声を聞きに行ってほしいと思いますが、「原発に対して賛成・反対を議論するより、今をどうするかについて考えてほしい」と言っていたのが心に残りました。

展示や遺構を見ることも大切ですが、人から話を聞くということもまた、考えさせられるものがあります。

伝承館の屋外には、津波によって大きく変形した消防車と、双葉町の商店街に掲げられていた「原子力 明るい未来のエネルギー」の看板のレプリカが展示されています。

明るいどころか負の遺産を作り上げてしまった福島第一原子力発電所。今後の未来を少しでも明るくするために、私たちは考えなければなりません。

伝承館→双葉駅を歩く

伝承館から双葉駅まで歩きます。写っているのは双葉町産業交流センター。ビル内には地元の企業と東京電力が入居しています。

伝承館や産業交流センターの周辺は再整備されており、店舗や会社、工場が立ち並んでいるほか、道路も舗装しなおされています。

復興は着実に進んでいる。そう思ったとて不思議ではありません、ここだけを見れば。

すぐ横には、帰還困難区域が再び広がっています。この手前までは特定復興再生拠点区域で、この看板の先は中間貯蔵施設予定地となっています。

Googleマップを見ると、この先の区画には建物の基礎が残されていることがわかります。かつてこの先にも人の営みがあったのに、今は建物という建物が解体され、その土地すらも踏めません。

さらに双葉駅の方向に進むと見えてくるのは、もう何年もそのままになっているのであろう施設たち。復興どころかむしろ時が止まったかのような光景もまた、受け入れるべき現実です。

しかし、それだけではありません、双葉駅周囲の建物には素敵なアートがたくさん描かれています。これは「FUTABA Art District」というプロジェクトで、ここに限らず、たくさんの壁画アートが双葉町内に描かれています。

震災から14年、原発の周辺は復興の光と影が交錯していました。

おわり

人々は、未来を予知することはできません。そして、過去を変えることもできません。

被災せず、復興にも直接関わらない私たちがしなければならないことは、話題になっている漫画を拡散することでも、根拠もない占い師の言葉を信じる事でもありません。

私たちにできること。それは、知ることです。

過去の出来事と現状を知ることは、漫画よりも自身の記憶に残り、未来予知よりも未来を変える力を持っています。

とても小さなことかもしれないけど、私たちが今するべきは「知ること」。たったそれだけです。

最後に改めて、東日本大震災により被害を受けた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

観光を学ぶひとりの学生として、今回学んだことは、必ず無駄にはしません。

執筆日:2025年8月11日(月・祝)